「国宝」歌舞伎演目 鷺娘 あらすじ
歌舞伎舞踊の演目『鷺娘(さぎむすめ)』は、一人の女形役者が次々と衣装を変えながら様々な女性の姿を演じる古典的名作です。水辺にたたずむ鷺の精を通して、恋に思い悩む女性の苦しみや喜びを描いた幻想的で美しい作品とされています。
鷺娘のあらすじ
『鷺娘』の物語は、主に以下の場面で展開されます。
• 白無垢姿〜恋する人へ積もる思い 舞台は雪の夜景が広がる群青色の水辺で幕を開けます。大太鼓の雪の音と長唄の置き唄が響く中、「妄執の雲晴やらぬ朧夜の恋に迷いしわが心」というテーマが示されます。これは恋に迷い苦しむ女性を鷺の姿に託して演じることを意味します。怪しい笛の音が鳴る中、傘をさした白無垢の花嫁姿の娘が現れますが、嫁入り前の喜びはなく、肩を落として寂しげに水辺にたたずんでいます。彼女の寂しい思いは、好きな人のもとへ嫁げない苦しさからくるものとされます。この娘は「鷺の精」であり、足を上げたり、首を動かしたりする鳥の所作を見せます。鼓の音色に合わせて鷺が羽ばたく様子が表現され、頭にかぶった綿帽子を取り、水面に映る自分の姿を見ながら鷺の生態を模倣します。恋しい男への怨みを顔の表情に明確に見せ、最後に体を沈めていきます。
• 町娘〜艶やかな衣装の恋心 照明が一気に明るくなると、娘の衣装は「引抜き(ひきぬき)」という歌舞伎特有の演出で一瞬にして変わります。衣装は真っ赤なちりめんに黒繻子の帯で、雪持ちのしだれ柳や雪の結晶が描かれています。曲調と衣装が明るくなり、恋から退いた女性の恥ずかしさやもじもじした様子を語る「クドキ」に入ります。
• 江戸娘〜軽やかな流行歌(はやりうた) 娘は再び登場し、今度は紫の衣装で浮き浮きとした江戸の娘姿になります。当時流行した歌に合わせて、男心がわからないとちょっとすねてみせる可愛らしい姿を見せます。その後、しっとりと恋心を歌い、雪山に刺しておいた傘を丁寧に払って開きます。この傘は絹張りから紙張りに変わり、次の衣装替えの準備の場となります。
• 晴れやかな町娘〜傘づくし 再び「引抜き」で、朱鷺色(ときいろ)のちりめんの衣装に一瞬で変わり、明るく晴れやかな娘の姿が現れます。着物の柄は枝梅(紅白の梅)と破れ麻の葉です。ここからは傘を使った「傘踊り」が始まり、くるくると傘を回すなど、様々な傘の扱い方が披露されます。これは鷺の心の恨みを忘れ、明るく晴れやかな町娘の心で踊る場面です。
• 鷺の精〜地獄の責め 再び雪が降り始め、舞台は薄闇に包まれます。幸せな日々は遠い過去となり、恋の苦しい思いに責められる心の地獄が描かれます。娘は肌脱ぎをした赤い襦袢(じゅばん)姿になり、袖を噛んで恨みをこめた物狂おしい様子を見せます。恋しい人に添えない苦しみが自分をさいなみ、死の淵に立っていることを表現します。そして、「ぶっかえり」という演出で一瞬にして鷺の姿に戻り、美しい「海老反り(えびぞり)」を見せます。罪を糾す閻魔大王に鉄の杖で打たれる地獄の責め苦を受け、左肩に赤い血が走り、瀕死の鷺は息も絶え絶えになりながらも起き上がろうとします。地獄の責めが休みなく続く中、恋しい人への思いは消えず、娘は生きようと悶え、必死に羽ばたきを続けようとしますが、ついに力尽きて息絶え、恋の妄執から逃れることができなかった一人の女、鷺の精の物語は幕となります。
舞踊のみどころ
『鷺娘』の主な見どころは以下の通りです。
• 衣装の早変わり(引抜き・ぶっかえり) 「引抜き」と「ぶっかえり」という歌舞伎特有の演出は、この演目の最大の魅力の一つです。重ね着した衣装の仕掛け糸を後見(こうけん)が一気に引き抜いたり、上着を腰から下に垂らして異なる柄を見せることで、役の性格や正体が大きく変わる様子を一瞬で見せます。白無垢から真っ赤なちりめん、紫の着物から朱鷺色のちりめん、そして羽のついた鷺の姿へと次々と変わる様子は必見です。
• 鷺の所作と感情表現 水辺にたたずむ鷺が羽を休めたり、水の中の姿を見たりする際の足の動き、首や嘴(くちばし)の動きなど、鳥の生態を模した繊細な所作が見どころです。また、恋に迷い苦しむ女性の姿から、明るく晴れやかな町娘、そして壮絶な地獄の責めに苦しむ姿へと、感情が劇的に変化していく様が見る人を惹きつけます。
• 傘づくしの踊り 軽やかな町娘の場面では、傘をくるくると回したり、片手で扱ったり、開いたり飛ばしたりと、大きく扱いにくい傘を巧みに操る様々な技法が披露されます。雪の中で差す絹張りの傘から、衣装替えの準備のために使われる透けて見えない紙張りの傘への変化も工夫の一つです。
• 長唄と鳴物 歌舞伎音楽である長唄の演奏に乗せて演じられ、大小の鼓だけで鷺が羽ばたく様子を表現するなど、音楽と舞踊が一体となった幻想的な舞台が展開されます。
• 坂東玉三郎の当たり役と若手役者 女形役者にとっては難役でありながら、最も得意とする女形役者として坂東玉三郎が有名で、400回以上も演じ、海外でも絶賛されました。現在は全編を踊ることはないと明言されていますが、玉三郎の指導を受けた中村七之助、中村壱太郎、中村時蔵といった若手女形役者による上演も期待されています。
『鷺娘』は、恋の妄執に苦しむ女の姿を幻想的かつドラマティックに描いた歌舞伎舞踊の傑作であり、静と動、華やかさと苦しさが織りなす舞台は多くの観客を魅了し続けています。