考察「国宝」の中の曽根崎心中

徳さまの死ぬる覚悟が…聞きたい 

映画を観た後も、このセリフが頭から離れない人、多いのではないでしょうか。濡れ衣を着せられた徳兵衛、もう商売人として生きてはいけない…徳兵衛に会えなくなるかもしれないお初、愛する人とは会えなくなるかもしれない、そして遊女として閉じ込められたような生活、そして嫌いな人に抱かれ続けなければならない。そんなことならいっそ…徳兵衛と一緒に死にたい。徳様は、私と一緒に死ぬ覚悟がありますか?と、問いかけるシーン。徳兵衛を縁の下に匿っているので、この「徳様の、死ぬる覚悟が聞きたい」というのは一緒にいる人々には独り言のように聞こえるけれども、お初本人は縁の下にいる徳兵衛に向かって伝えていて、そして素足(素足、というのがまた遊女っぽくて色っぽく、そしてこのシーンをより官能的で切ないものにしていると思います)を差し出して、その返事、意志を確認する。一生懸命発した「私と一緒に死ぬ覚悟はありますか」という台詞と、そしてその足を自分の首に当て、ある。と答えた徳兵衛。足に触れられ「覚悟はあります、一緒に死のう」という意志を伝えられた時どんな気持ちだったか。ホッとするとは違うし、ああ、良かった。ああ、嬉しい。という表現もちょっと軽い気がする。この気持ちを文字にする語彙力がないのが悔しいのですが、この気持ちを表情で表現した吉沢亮さんのお初、本当に見事だったと思います。

映画の中で2回演じられる曽根崎心中

小説だと、曽根崎心中は確か1回。これを2回にした脚本と演出、なぜだろうとずっと考えてしまいました。1度目は代役としての東一郎のお初。本当に素晴らしく、本物のお初が乗り移ったような、映画だということを超えて、その中の曽根崎心中のお初に感情移入してしまうような、曽根崎心中でした。

それをあえて2回目、俊介で演じたのもすごい…小説だと、足を無くした後の俊介がなんとか舞台に立つ演目は隅田川だったはず。死んだ子供を探して母がさまよう物語で、気が狂ってしまっている演技が難しく美しい演目です。俊介は第一子を無くしているからその俊介が足を無くした状態で演じるというところがすさまじい描写なのですが、隅田川ではなくて曽根崎心中2回目を持ってきた意図も、色々考えてしまいました。

俊介のお初が「死ぬる覚悟が聞きたい」と差し出した義足ではない方の足がもう既に壊死していて…そしてその足を目にして、胸が引き裂かれそうになりながらも抱きしめる半次郎の徳兵衛。もうどうなってもいいから、足がだめでもいいから、演じきりたいというまるで歌舞伎と心中する覚悟を2人が見せるような描写だと思いました。花道を逃げるシーンも、もう足がだめなのに、化粧もドロドロでぐちゃぐちゃなのに、最後まで、最後まで。とやり切る姿が…そして俊介のお初が最後死ぬ時の、安らかな表情がなんとも言えませんでした。何度観ても何度思い出しても、一番涙が出るシーンです。

心中もの

曽根崎心中は実話をもとにしたお話で、お初は19歳。でも確かに19歳って、自分の生きている世界がすべてで、広い視野で「まあなんとかなる」とか「頑張っていれば未来は明るいかも」とか、そういう希望を持てないような年齢でもあると思います。無我夢中で好きになった人が自分の全て、みたいに思える年齢というか。そんな擦れてなくて冷めてなくて、全ての情熱と想いがすごくパワフルに自分の気持ちや意思決定を揺さぶるような、そんな年齢だと想います。

曽根崎心中を始め、心中ものは色々あるし、◯◯心中と名がつかなくても、心中しようとするシーンや展開が、浄瑠璃や歌舞伎にはよく出てきます。この「心中」自殺といえば自殺なんですが、概念がちょっと違って、一緒に死ぬと来世で一緒になれる。という信仰があったとか。この世では身分の違いや色々あって一緒になれなかったけど、来世で必ず結ばれるようにと信じられていた。一緒に死ぬと来世で一緒になれるシステム、誰が言い出したのかなぜそれが信じられていたのか、それを信じていたのか、それともただ絶望して死にたかったのか…当時の人の気持ちや信仰に思いを馳せると、本当に色々考え込んでしまいます。だれかが残した、本気でその時の心情を書いた日記、とか文献が出てこないだろうか…

当時、曽根崎心中のヒットから、心中も流行ってしまって…結果、心中は政府に厳しく禁止され、もし心中した男女が見つかったら晒し者にされたり、とてもひどい罰を受けたそうです。ただ、来世で一緒になれると信じられていたというものの、男女の双子は前世で心中した男女の生まれ変わりだなんて説もあったりして、本当に日本の言い伝えは面白いなと想います。心中した罰として、愛し合うことが許されない兄妹として生まれ変わったとされているものの、でも、家族としての愛情があって絶縁しない限り一生縁が続くという意味では良いことなのか?解釈が難しいですが、誰かがこれを言い出して、誰かが信じて、そして言い伝えられてきたからこういった話があるんだというのがなんとも興味深いところです。

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